日本の陶工技術は全て朝鮮人から?

2018. 7. 13. 12:45세상사는 이바구들

 えっ、日本の陶工技術は全て朝鮮人から?重宝がられ明治維新で朝鮮人天皇を擁立し日本を

支配「歴史の改ざん者1地名(苗代川)の変更はなぜ可能か-司馬遼太郎文学を問う







壽官陶苑なるものがある。陶苑の当主は第十四代・沈寿官(以下、十四代と記す)。所在地は鹿児島県日置郡(現・日置市)東市来町美山。鹿児島市の中心街から三十キロ足らずの距離である。
 美山は昭和三十一年まで苗代川と呼ばれてきた所である。

 苗代川と言えば、そこで産出される苗代川焼きは、薩摩焼の代名詞同様の商標的価値を持つものであった。それだけの価値を持った地名が、昭和三十一年九月三十日付けで何故、美山に変更されたのか?
 変更の理由を東市来町の行政側に当たってみたところ、行政側が地名の変更を促進した気配はない。行政側が町村合併促進法を提示したところ、下伊集院村に所属していた苗代川の住民から、東市来町に変更編入したいとの申し出があり、地名も美山に変更したいとの要請があったので、要請通りに変更したという。表面的にはごくあっさりした理由で変更したようである。
 
 十四代は何故、地名変更にこだわらなかったのか。つまり、何故、地名変更促進の方に回ったのか、そこに私(筆者)はこだわりを持つが、このこだわりを理解してもらうには、苗代川の歴史を一通りおさらいしておく必要があろう。

 豊臣秀吉がその治政時代、朝鮮に二度も出兵した事はよく知られているところである。いわゆる文録の役、慶長の役である。千五百九十二年から始まり、同九十八年十月に和議が成立したこの戦乱を、朝鮮側では壬辰倭乱(じんしんわらん)と言う。
 この戦乱に薩摩から出兵したのは島津義弘である。慶長の役での薩摩軍勢の・旨兵数はおよそ一万人。その時の戦いぷりが『鹿児島県の歴史』(原口虎雄)の中に記述されている。

 〔さしもの敵の大軍も潰乱状態に陥り、(中略)合計三万八七〇〇余の首級をあげ、その他山野に遺棄した死者も無数で、敵の戦死者八万と称せられる・・〕云々と。もっともこの後に、〔島津勢も数刻の戦いで多数の部下を失い、義弘も小舟の乗じてからくも唐島にのがれたが...〕と記す。

 この戦乱のあと、日本に引き上げる日本軍勢は、多数の朝鮮人を捕虜として連行した、というのが一つの通説になっている。島津勢が連行した朝鮮人の中に、十四代の先祖も入っていた、と。
 
 日本側が多数の朝鮮人を連行してきたのは、確かに歴史的事実であろう。だが全てが連行であったかどうかには疑問の余地がある。連行というと、全て帰りの戦艇の底にでも押し込んできたような印象を受けるが、すくなくとも十四代の先祖を含んだ一団については、その印象と事実は食い違うものである。彼らは戦乱終了から一年ほどして、鹿児島は串木野に到着(漂着)している。
 
〔かれらが串木野の浜に漂着したのは、開か原の直後ーーつまり島津家が国境に兵を出して臨戦体制をとっている騒ぎの真最中のころであった。(中略)こういうときにあたって薩摩国の東シナ海海岸に、韓国のI群が流れついたことなど、鹿児島の城下ではたとえそのうわさを聞いたところでかまっていられる状態ではなかった〕。

 こういうことで、その漂着集団が捕虜であったか、国外脱出組であったかは、通説通りには断定できない問題である。捕虜説は成り立たないと私は考えているが、その立証は先送りにして、地名変更にからむ元苗代川住民のこだわりに触れて起きたい。
 
 何故、苗代川の住民があっさりと苗代川という地名を捨て去ったのか。理由はただ一つ<彼らは苗代川イコール朝鮮人部落>という印象にこだわっていたからである。
 
 〔苗代川の尊さは、あの村には古朝鮮人が徳川期にも生きていたし、いまも生きている。〕ーー『故郷忘じがたく候』になると、こういう話になるからだ。昭和の時代でも苗代川に朝鮮人が多く住んでいるような話は尊いどころか、有難迷惑な話なのである。

 また、事実問題として、美山には朝鮮系の人は殆ど住んでいないのが実情である。明治になると、彼らの多くは、名前を日本姓名に変え、県外に流失?してしまう。つまり、日本人の中に紛れ込んでしまうのである。
 
 東条内閣時代に外務大臣を勤めた人に東郷茂徳という人がいた。この人の父親の姓は朴。この朴氏が焼いた焼き物が壽官陶苑で見られる。つまり朝鮮系の人なのだ。これが事実だが東郷茂徳氏は一生、自分の出自を明かさなかったようだ。先祖の墓も苗代川に遺棄している。墓石を遺棄したのは東郷茂徳氏に限らない。昭和の終わりまでは、苗代川の墓地に行くと、藪陰に遺棄された朝鮮名の墓が見られたものである。
 
 彼らは県外でも自分たちの身元を隠したようである。現美山でも朝鮮名を名乗っている者は一人もいない。沈寿官の呼称も実名ではない。「故郷忘じがたく候」では十四代は沈寿官と呼ばれているが、十四代の本名は大迫(吉本)恵吉である。十四代が自分を沈寿官と呼び出したのは、『故郷忘れじがたく候』で一躍有名になり、陶器ブームがそれに重なってからである。

 彼はそれまで沈さんとか、壽官さんとか呼ばれることは、あまりなかったようだが、たまに、そう呼ばれると「あたいは大迫ごあんど」と訂正していた事を記憶している人がいる。
 
 十四代は昭和四十四年から七年にかけて、鹿児島県PTA連合会長を務めてているが、その時の名前は大迫恵告である。彼はまた、美山小学校のPTAの会長を務めているが、その際にも、沈寿官の名前は使っていない。

 事実は事実として書き記すべきだと述べている司馬遼太郎が、『故郷忘れじがたく候』で十四代の実名を一度も明かしていないのは何故か? 十四代の実名が沈寿官であるような印象を与えているのは何故か? <都合の悪い事実は消す>こと以外には考えられない。司馬氏と十四代二人は、擬態を真実であるかのように仕立てあげる虚構を必要としたようだ。そこに、司馬氏一流の詐術がなかったかどうか、厳しく問われていいことであろう。

 姜魏堂(きょうぎどう)という人物がいる。(いたと言うほうが正確かもしれない)。新聞記者をやり、劇作家でもあったようだ。この人が『秘匿・薩摩の壷屋』『生きている虜囚―薩摩焼ゆらい記』という本を出版している。戦後の出版である。その中の略歴紹介によると、この人の本名は日本名であったようだが、それは紹介されていない。ただ「一九〇一年鹿児島県下にある薩摩焼の原産地に生まれる」とある。原産地とは苗代川のことである。(※正確には苗代川は薩摩焼の原産地ではない。)
 
 ところで、この本のタイトルとなった<壷屋><虜囚>と言う言い方には独特のニュアンスがある。壷屋とは、焼物師の蔑称という風に。(これには私は異論があるが、詳しくは触れない。)虜囚とは単に、先祖が朝鮮から連行されてきた(として)という発端だけへのこだわりだけでなく、明治以降の日本人による朝鮮人蔑視にこだわるところから、恨みをこめて自らを虜囚と呼んだのであろう。そこには、朝鮮系の人間の屈折した感情が見られる。

 この姜魏堂氏が苗代川という命名についての経過を書いている。

 〔朴平意は壷屋の高麗人という賎称を、嫌となるほど聞かされてきた。だからその壷屋の代わりに、正式の地名が欲しかったのである。そこで合議の結果、山麓にある水田の苗代に引かれる水の悉くの高台から湧き出ている処から「苗代川」と命名された。〕

 この説は事実と言うより、姜魏堂氏の苗代川への思い入れを物語るものであろう。苗代という地名は日本全国いろんな所にあり、渡来者が別に命名するのなら、もっと、朝鮮らしい地名にしそうなものである。朴平意は高麗人という呼称を蔑称と捉え、とても嫌がったとあるが、これは明治以降の感覚で、逆算して予想したことであろう。

 少なくとも高麗いう呼び方に蔑視が本当にあったのか。後述するが、明治までは朝鮮という国は、文化国家として日本人は見ていたのである。現在でも鹿児島市内には高麗町とか二宮通りという地名が残り、使われているが、これなどかつての朝鮮を仰ぎ見ていた時代の名残りであろう。霧島山も韓国(からくに)岳と呼ばれている。これなどもむしろ尊称である。
 
 渡来者が住み着いた苗代川は無人の土地ではなかった。既に、百姓などが住み着いていたのであり、その百姓たちの土地を島津家は取り上げて、渡来者に与え、窯業を始めさせたのである。(※詳しくはあとで触れる。)そういう事で周りの百姓よりは生活は後には恵まれるのである。その点。寧ろ苗代川の近くにあった部落が披差別部落視され、悩まされてきた方が深刻である。地名に限っていえば、渡来者が苗代川などと付けたとは思えないが、ともかく朝鮮系の人にとって苗代川という呼称には複雑で、思い入れ深い地名であったことには変わりないであろう。そういう歴史のこめられた地名があっさりと変更された。それも昭和になってからである。朝鮮人差別の激しかった戦時中のことではない。

 ところで、江戸中期に橘南範(たちばな・なんけい)という医者がいる。彼には『西遊記』という諸国の見聞録がある。橘南範は苗代川も訪問し、伸という庄屋に会い、色々と聞き取っている。例えば、そこに住んでいる朝鮮人名。李、朴、姜、陳、佳など。こういう小難しい漢字を書きとるほどの学者でもある者が、どういうわけか苗代川とは記録していない。ノシロコと五回にわたって書いている。どういう訳であろう。

 こうした由緒ある苗代川という地名が昭和三十一年に美山に改称されたわけだ。姜魏堂氏がこだわるのは、それとは別の墓の碑名の改窟(かいざん)である。
 
 美山の墓地にも「墓石の撤去」ではないが、「碑名の改竄」が流行している事を「私は軽蔑する」と断罪している。
 
 墓名碑の改憲が物語るのは、出自からの逃亡だが、逃亡の意味では、苗代川の朝鮮系の住民の他県への流失にも現れていると、姜魏堂氏は書く。(※ 独立した「郷」時代の最盛期には一千戸もあったと伝えられる苗代川は、大正末期には僅か二三四戸〔戸籍上そこに本籍を残していた者を加えても三〇五戸・九八四名〕、そして今日〔一九六五年〕では本籍すら半減して一八九戸、同人五九八名となっている)

 昭和五十年代に入ってからの事である。鹿児島市を根城にしている短歌グループが苗代川に吟行会を試みた事がある。参加者の大部分は五十、六十代の女性。一行は壽官陶苑で苗代川の者と落合い、そこの窯場を見学したあと、近くのホテルで短歌会をもった。参加者の歌の多くは、渡来者が長年の苦難に耐え、窯の火を絶やさなかったことを讃えるものであった。それは、概して、多少なりと涙を誘うものであっので、大方がしんめりしている時にヽ苗代川在住の七十年輩のN婦人がヒステリッックな声をあげた。

 「お前さあたちは、苗代川、苗代川ちゅうが、ここは美山やっど!朝鮮部落じゃなかとやっでな!」

 彼女の声は苗代川在住の日本人(つまり朝鮮系出はない者)の、苗代川という呼称へのこだわりを示すむものであったのだろう。

 では、美山に朝鮮系の者がどのぐらい居たというのであろうか。数にして微々たるものであるが、かれらも朝鮮名を名乗っているわけではない。(※沈寿官のことは後述する。)そこには、朝鮮人に対する差別感に引きずり回されている日本人の姿があるだけである。







# 출처 ==>> https://blogs.yahoo.co.jp/hokisimoto2/6125749.html







おっ、 が始まった!吉田家に家族ごと乗っ取った杉寅次郎=吉田松陰!

松本村という朝鮮部落で萩焼(松本焼)を焼いたりする技能集団の部落 萩史料館で館長の田布施の秘密の話も



そう、萩焼とは実は松本焼と呼ばれてたが名前がよくない、

と今のブランド名に!南朝天皇の出自を隠すため!


吉田松陰が兵法を教えた朝鮮陶工部落で萩焼(松本焼)発祥の松本村:卑下し松下村塾